生と死
このところ、小林麻央さんや身内の訃報が相次ぎ、生と死についていろいろ考えてしまった。
小林麻央さんの早すぎる死について、世間では「まだ若いのに」「小さな子供がいるのに」「かわいそう」という声が大半だと思う。
そんな風に思われたくないとご本人もブログに書いていたようだ。
私も、そう思う。
何故なら、そんな風に思ってしまったら、年を取ってからの死や子供がいない人の死はかわいそうではないのかということになる。
昨日までいた人がいなくなるということは、若者dか高齢者か、既婚か未婚かに関係なく悲しく寂しいこと。
それだけだ。
本当にかわいそうだと思うのは、何の前触れもなく、心構えもしていないうちにこの世を去ってしまうこと。
運命を受け入れられないうちに亡くなってしまうこと。
地震や津波や火事でこの世を去った人、テロの犠牲に遭った人、合宿中の事故で亡くなった学生たち…
小林麻央さんはブログで赤裸々に病状を綴り続けたことが世界中から称賛されているけれど、公表することだけが素晴らしいわけではない。
高倉健さんや川島なお美さんのように病を隠し、最期まで俳優としてあり続けたこともなかなかできることではない。
今井雅之さんが衰弱しきった身体で会見に臨み、もう永くないことや病の苦しみを告白したのは、舞台に立てないことへの謝罪の気持ちと責任感、世間に対しても誠実であろうとする人柄の表れ。
どれも、その人らしい、素晴らしい行動だと思う。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
さてこんな時でもベルばらを思い出してしまうけれど、決して死を軽んじているわけではない。
それだけベルばらは私の心に影響を与えているのだ。
原作のオスカルは、最後の言葉が「フランスばんざい」だけれど、アニばらのオスカルはアンドレの顔を思い浮かべて「アデュー」と残し、去っていく。
人は死の直前に何を思うのか。
やはり、最も大切なものを思うのだろう。
オスカルがフランスを最も大切にしていたとは思えない。もちろんフランスの為に死ぬつもりでいても、それ以上に夫であるアンドレを大切に想っていた。
アンドレが死んだ時に、「撃て!私を撃て!」と飛び出していく姿は、革命などどうでも良くてアンドレのことしか考えていない気持ちの表れだ。
そう考えると、アニばらオスカルの最期の方が人間らしい。
原作オスカルの遺言にある「一片たりとも悔いなく」生きることなんて不可能だ。
オスカルは人生で全く後悔しなかったのだろうか?
いや、きっと後悔しただろう。
アンドレの片目が見えなくなった時、フェルゼンに正体がバレた時、シャルロットを助けられなかった時、アンドレの失明に気付かず死なせてしまった時…
オスカルの言葉にある「悔い」は、日々の生活に対してではなく、生きることに対しての「悔い」だったのだと、例え普通の女性として生きられず戦場に散る命だとしても生きることに対して全く悔いがなかったのだと、やっと気が付いた。
一見人間らしくない原作オスカルだけれど、撃たれて遺言を残す時に、真っ先にアンドレと同じところへ…と言ったのは、話せるうちにとにかくアンドレのことを…という気持ちだったのだろう。
アニばらも原作も、オスカルは最愛の夫アンドレを何より大切に想い、旅立った。
私が死ぬときにも、最愛の人を想って旅立ちたい。